オリジナル考

某日、宗像市で行われていた中西秀明氏の展覧会を訪れた。以前工場を見学させていただいたことはあったが、展覧会という形で作品を拝見するのは始めての機会であった。 私などの若造がこの方について文章を書くこと事態おこがましいことであるのは百も承知だが、自身が卒業論文でテーマとした「ものの秩序」と呼ぶものについて考えざるをえなかったため、お許し願いたい。

中西氏は元素を操る芸術家である。
主にFe(原子番号23)や、それにCr(原子番号23)、C(原子番号6)をまぜたステンレス鋼、Al(原子番号13)などの扱いを得意とされている。本来冷たく固く重たいイメージを持つ金属も中西氏の手にかかれば、時に粘土のように柔らかく、時に空気のように軽やかに、時に生物のように生生しく変容する。 中西氏の作品は、とにかく創意工夫に満ち満ちており、独自に発明した技法によって、元素が我々に語りかけてくるような、いままで無口だった物質が心を開いてくれるような、「君ってそんな一面もあったんだね」と言いたくなるような、そんな印象を与えてくれる。

さて私がこの文章を書く契機となったのは、中西氏が実物の縮小模型を制作して展示していたことにある。
実物は市内某所のマンションのエントランスに展示されているものなのであるが、あまりに巨大で移動させることが困難なため、模型はそれを伝える手段として作られたと見るのが普通の見方であろう。しかしこの縮小模型は非常に精巧に作られており、しかも実物と全く同じ材料でできている。他の展示物から感じられる物々しさというのはここでは感じられず、むしろ実物との関係性を崩さないように細心の注意が払われているように見受けられる。
メディア論の中で考えるなら、なぜ写真ではいけなかったのかということが主題になり、創作論の中で考えるなら、実物と模型、すなわちスケールが変わった時に何が変わったのかあるいは変わらなかったのかといったことが主題になる。私が卒業論文で扱ったのは、上記のような主題であり、アメリカの画家であるデイヴィッドホックニーを題材とした。デイヴィッドホックニーが展覧会のために舞台装置の模型を再製作したのと全く同じことがここで起きていたのである。
正直、卒業論文の段階では場当たり的な回答しかできておらず、その核心に迫ることはできていなかった。それから四年の時を経て、少しそういったことを忘れかけていた頃に再び私の前に現れたのだから、これは神様が「もう一度考え直せ」と言っているに違いないと自分に言い聞かせる他なかった。

まず考えを整理するにあたって、この二人の作家を比較することから始めてみた。生まれも、題材も、メディアも異なる二人であるが、一つの共通点が見つかる。 それは作品に実験的な側面が見られるということである。
ホックニーは、メディアを選ばずに表現を探っていったというだけでなく、一つのメディアに関してもかなりの実験を繰り返して創作を行なっている。中西氏も同様で、金属の加工方法に対して相当な実験を行なっている。実際に展覧会に訪れた人が中西氏に投げかける質問は、「どうやって作ったのか」という内容のものが大半で、中西氏がそれについて非常に楽しそうに話しては、来訪者を驚かすという構図であった。
つまり芸術としてメッセージやコンセプトを伝える以前に、ものを作るとことで誰かを驚かしてやろうといった遊び心が共通しているのだ。
ここでメディアというものが、単にある一つの目的のために合理化された手段でしかないことに気がつく。そしてその目的とは大半の場合、時間や労力を削減するためのものに過ぎない。ホックニーも中西氏も、縮小物で何かを伝えたいという以前に、作りたいから作ったのである。彼らにとってはれっきとした合理性がある。「これを表現するならこのメディア」というのは、ただの固定観念でしかない。

次のスケールの変化による差については、ホックニーと中西氏では、まるで異なったアプローチだった。
ホックニーは縮小物をつくる際、単に縮小させるのではなく、実物を作った時と異なった手法で再製作したのに対し、中西氏はそれを精密に縮小した。空間の有無という違いはあるにせよ、この違いこそが作家による秩序の表れなのではないかと考察できる。両者にとって、実物も縮小されたものもオリジナルであることに違いない。しかしスケールが変わった時の手の動かし方に、作家としてその作品に通底させるべき秩序感が現れる。つまり秩序とは作家の数だけ無限に存在し、それがある限り、縮小されたとしてもオリジナルたりうる。縮小された時に必然的に削ぎ落とされてしまう情報を処理する脳の構造に秩序が存在している。ちょうど宇宙スケールのマクロの物理学と素粒子スケールのミクロの物理学とが異なる考え方に基づいている構図に似ている。
オリジナルとは、そこにしかないものや、一回限りのものなどではない。秩序があるかぎり永遠に繰り返し可能で再現可能なものである。(もはやオリジナルという言葉を使わない方がよいだろう。) ここで建築について一つ言える結論は、建築家という概念が生まれて以降の世界では、建築家が建築に直接手を加えることができなければ、実物と模型とがリアルとフェイクであるという関係性から脱出できない。(ここで言う「手を加える」とは、先の秩序を持たせるということに等しい。)

一旦ここまでとする。